他責思考と自己責任
ついこの間まで「他責思考」という言葉をよく目にした。
「他責思考」とは端的に言えば“なんでも他人のせいにする思考傾向があること“を指す。
例えば「恵まれないのは親のせい」とか「苦しいのは社会のせい」とかそういった自分が抱えている問題を誰かの責任にしようとして自分をあたかも完全な被害者かのように考えることだろう。
勿論この「他責思考」は非難されている。自己責任が大好きな日本では嫌われる思考だろうなとは誰しもが予測できることだと思う。
そもそも自己責任論と他責思考批判はほぼ双子のようなものである。いや多分ほぼ同一人物である。自己責任は自分で自分の選択や状況に責任を持つことであり、他責思考批判は他者に責任を追求することを否定すること(反対的に自己の様々な要因を自己の責任とすることを強要する)と考えるとやっぱり両者は表現が違うだけで本質的には変わらない気がする。とすると日本人が他責思考を嫌うのは一層納得がいくよなと一人で勝手に納得したりする。
一方で行き過ぎた他責思考批判は正確な帰責先の特定を困難にする。
特に「〇〇は社会のせいだ」という意見には、時として政策の改善点を与えてくれる。
本当に社会が何か作為をしていれば、彼(彼女)はそうならなかったという可能性も少なくはない。
虐待による死亡、毒親による子の精神疾患発病は良い例と言える。
故にその事象の原因を追求し、責任の貴族先を明確にすることは公益にも繋がる。
また、公益だけでなく当人の利益にもなりうる。
本当に本人に責任を帰属させるべきこととそうではない単なる被害者であることを分類することによって、治療すべき事項を明確にすることは当人の社会復帰や抱える問題の解決を可能にし、かつそのためにかかる時間を短縮できることも考えられる。
一見毒にしか見えなくても薬になることはあり得ると思う。
全ては使い方の問題であって、他責思考そのものは悪くないのではないか。
簡潔に言えば、何でもかんでも他人のせいにするなと言うのは違うのではないかなということである。